継体天皇の虚像と実像
五〇六年一二月、武烈天皇が若くして亡くなり、葛城王朝の皇統が絶える。そこ
で、大伴金村大連が、皇位継承にふさわしい人物として、越前国三国に居た、応
神天皇の五世の孫男大迹王(おほどのみこ)を見出し、諸臣下の賛同を得て、即位を請う。
男大迹王(おほどのみこ)はすぐには承知されなかったが、周囲の説得を受けてようやく
即位される。そして、武烈天皇の姉手白香皇女を皇后に迎え、皇后は、葛城王朝
の血統を受け継ぐ、後に欽明天皇となる嫡子の皇子を生む。
継体天皇は、五七歳で即位し、二十三年間統治し、五三一年辛亥(かのとい)の年
に八二歳で亡くなる。手白香皇女の産まれた嫡子の皇子はまだ幼かったので、継
体天皇が天皇になる前に尾張連草香の娘目子媛(めのこひめ)に産ませた二皇子が、
安閑天皇、宣化天皇となって間を繋ぎ、五三九年に嫡子の皇子が即位して欽明天
皇となり天下を治める。日本書紀から、このように要約できる。
記紀は、継体天皇は摂津国三島郡にある藍御陵に葬ったと記すが、その墓は継体
の時代より百年ほど前に造られている。その近くにある今城塚古墳が、大規模な
発掘調査により、継体天皇の本当の墓と考えられている。そこから発掘された日
本最大の家型埴輪などから、越前国から出て皇統を継いだ継体天皇が強大な権力
を持って実在したと確認できる。
継体天皇を知る人々の多くはこのようなイメージを持っていると思う。継体天皇
の実像はこの通りであろうか。継体天皇に関わる様々な記述には、くい違いや疑
問点が多くあり、その実像は、日本書紀の記す通りではないと私は思っている。
次に一つの仮説を述べる。
古事記は継体が、五二七年丁未(ひのとひつじ)の四月九日に四三歳で亡くなった
と記す。五三一年辛亥(かのとい)の年に八二歳で亡なったとする日本書紀とは大
きなくい違いがある。古事記が正しいなら、五〇七年に天皇が即位した年齢は二
三歳となり、天皇候補として選ばれるのは若すぎる。即位するのはもっと後と考
え直さないといけない。
日本書紀・継体天皇紀に、勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)(後の安閑天皇)は
五一三年に仁賢天皇の娘春日山田皇女を妃に迎え、濃厚な恋愛の歌を取り交わし
たことが記されている。日本書紀に記された安閑天皇の亡くなった年から計算す
ると、この時、五七歳であり、濃厚な恋愛の歌を詠うにはそぐわない年齢である。
古事記から継体の年齢を見積もると、この時二九歳となる。勾大兄皇子は継体天
皇の子でない可能性がある。
古事記は、武烈天皇の下に真若王がいたと記している。武烈天皇の没後、葛城王
朝内で内紛があり、真若王が後継となれず、男大迹王(おほどのみこ)を頼って葛城王朝
政権と決別した可能性が考えられる。つまり、真若王と勾大兄皇子は同一人物と
する仮説である。この場合、古事記の記述では、仁賢天皇の男子の子は武烈天皇
と真若王であるが、同母姉は手白香皇女とその姉が三人いる。姉を娶った重臣が
葛城王朝を率い、真若王は彼と対立したと考える。
よく指摘される最も大きな疑問は、日本書紀が継体天皇の死を伝える記述に副
えられた注釈である。「天皇の死去を二五年としたのは百済本記によって記事
を書いた。百済本記によると『二五年(中略)聞くところによると、日本の天
皇および皇太子・皇子皆死んでしまった』と。辛亥の年(五三一年)は二五年
に当たる。後世、調べる人が明らかにするであろう」と疑問を残す内容で終
わっている。この当時の百済から見ると継体天皇の一族は、皇族と見えていな
かったという解釈もできる。葛城王朝と継体は並立していた可能性がある。
日本書紀は、継体天皇は即位後、河内国交野(かたの)郡葛葉宮に居り、五一一
年には山城国綴喜(つづき)に宮を移し、五一八年には山城国乙訓に宮を移し、
五二六年に大和の磐余の玉穂宮に移ったと記している。五一二年に任那四県を
百済に割譲した時、五一三年と五一五年に百済の武寧王配下の姐弥文貴
(きみもんくい)将軍らがさらに任那の己汶・帯沙の割譲を願いに交渉に来たと
き、継体天皇は山城国綴喜の山の中に引きこもっていたことになる。
継体天皇が五二六年に大和の磐余の玉穂宮に移るまでは、葛城王朝系の政権が
引き続き存在していた可能性がある。そして、任那六県の割譲もその政権が
行った可能性がある。
五二六年には筑紫の君磐井の反乱が勃発している。王権を譲った葛城王朝一派
の反乱とも解釈できる。五二七年、磐井は、継体政権から派遣された大将軍物
部麁鹿火(あらかい)との戦いに敗れ、斬られて果てる。同年、古事記が述
べるように継体天皇が亡くなる。継体天皇の子でない葛城系の勾大兄皇子がそ
の後を、皇太子のまま引継ぐ。彼も五三一年に即位しないままに亡くなったと
すると、百済から見ると天皇も皇太子・皇子も亡くなったように見える。勾大
兄皇子には后妃が三人いたと日本書紀は記している。早世の皇子がいておかし
くない。継体政権は、東日本の並立王朝で、百済には葛城王朝しか見えていな
かったという仮説が成り立つ
のであった。
掲載先 歴史研究 52 (1•2), 44-45, 2010-1•2 東京 : 戎光祥出版